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INTERVIEW

全てに対して誠実であること。
ごまかさないこと。
この業界に入って40年。
諦めなければ何とか活路が見出せるんです。 代表取締役 菊地 慎一

とにかく建築に携わる仕事が面白くてしょうがなかった下積み時代

世の中にある多くの仕事の中で、なぜこの仕事を選んだのですか?

「ものづくり」に関わる仕事をしたかった、形として残るものを作る仕事に就きたかった、という事が第一ですね。自分が死んだ後でも世代を越えて「ものづくり」が残っていく、というところの選択肢として建築が残ったので建築の学校で学び、今に至ります。
「これはお父さんが設計したんだよ」と子供達に見せられるという仕事だったことも自分にとっては魅力でした。

本当に「ものづくり」が好きなんですね。

はい。小さい時から絵や工作なんかが得意で、学校でも絵をかけば賞をとったり、彫刻を作れば仙台の美術館に学校を代表して展示されたりしていました。

建築家にはなるべくしてなったということでしょうか。

高校生の時に「俺たちの旅」という東京の吉祥寺、井之頭公園辺りを舞台にした中村雅俊さんが出ている男3人組のドラマがあったんですがそれにハマっていて…。その影響もあり「仙台を出て、東京に行ってあっちの大学で学びたい。」って思ったんですよね。それで東京に出てきて、いろんな建築家の建物を見たりして、より「この業界で勝負しよう」という気持ちが強くなりました。東京には12年いましたがその時の体験は仙台においての仕事の糧になってます。

東京でいろんな建物を見て、刺激を受けたわけですね。

今でも全国の美しい建物を見に行くのが好きで、趣味みたいになっていますが、昔もアルバイト代を叩いて有名な建築を全国に見に行ったりしたものです。

菊地社長も社会人になりたての頃は建築設計関係のどこかの会社に入って修行をしたわけですよね。この業界の現実はどうでしたか。

私はちょっと変わり種で、大手のディベロッパーに行ったんですよ。営業以外は、設計だけでなく全部やりました。事業計画的なところだとか、土地の再利用開発だとか。あとは広報の仕事もしました。
セゾングループのディベロッパーだったんですが、バブルの絶頂期で、勢いもあって都市開発とかの仕事を随分させてもらいました。とにかく建築に携わる仕事が面白くてしょうがなかったです。

めちゃめちゃいい時代ですね。

本当にバブリーな時。やりたいこと、好きなことができる時代でした。
ところがある時、父親が癌で「先がない」とお医者さんに言われて…。不肖の限りを尽くしていた息子としては、「最期は親の死に水ぐらいは摂らないといけないな」という思いで、仙台に支店があったので転勤を申し出たんです。それが私のエポック(転機)ですね。
結婚する直前で30才くらい。仙台に戻ってきてすぐに担当したプロジェクトの案件がヴィルヌーブ八幡町というマンション。

あの時はその跡地にエンドーチェーンという地元のスーパーマーケットがあって、交番や郵便局そして複数の賃貸マンションなども立ち並んでいて。それを何とか立ち退いて頂かなくてはならないということで…。いろんな関係者、関係会社との権利調整がかなり大変でした。でも最後はちゃんと形になって、とてもいい経験をさせてもらいました。

菊地社長は権利調整やクレーム対応にも強いという話を聞いていましたが。

どこの会社も同じだと思いますけど、地方の拠点事務所においては一人で何でもやらないといけないんですよね。

「面白いこと」は設計の最中も、工事に着手して竣工までの現場管理も、みんな面白い

そういったことも含めて面白さですか?一番この仕事の面白さって何ですか?

引き渡した時にお客様に喜んでもらえることです。それが一番。
あとはもっと手前のところで、施主さんのご意向をうかがって最初のプランを提案した時に「これはすごくいいですね」と言っていただいた時ですかね。「面白いこと」は設計の最中も、工事に着手して竣工までの現場管理も、みんな面白いんです。

何よりも、それをみんなで達成するということ。1人ではできない仕事なので。現場の方々の協力、現場事務所の方も、職人さんも、全員でやる。そう言ったことを含めて面白いです。

そもそもは「ものづくり」が好きで就いた仕事だったのに、お話をうかがっていると、菊地社長は「様々なシーンでの人との関わり」を楽しんでいるように感じます。交渉も含めてチームワークで現場を進めるとか…。でも、そんな菊地社長でも本当に大変なことはあったんじゃないですか?だけど、くじけなかった理由ってなんでしょう。

そうですね。建築ができた時、周りの街並みがよくなるのを実際に見られるじゃないですか。その喜びっていうのは毎回忘れられない。 私は、「建物」単体ではなく、周りの街並みや環境にぴったり合っていて、溶けこんでいることが「いい建築」だと思っているんですが、それが上手く完成した時にどんなに大変でも辞められない。癖になりますよね。

菊地社長の尊敬する人物、先輩でもいいですし、親でもいいんですが、心に残る言葉、大切にしている座右の銘みたいなのはありますか?

私は稲森和夫さんが好きで、稲森さんは「働くことは万病に効く薬である」と言っています。仕事は「あらゆる試練を克服し、人生を好転させる妙薬である」と。その言葉です。

今、私にも刺さりましたね。

「くじけそうな時も、弱っている時も、働くことで克服できますよ」「悩んでいないで働きなさい」という…。なるほどなと思いました。

そしてもう一つ、3.11の大震災は人生最大のエポックです。

あれだけの震災で全国からボランティアとか、私の仲間も「何とかしたい」ということでいっぱい来たんですね。当時私はロータリーで会長をやっていたりして全国からの支援の窓口になっていました。全国から「何とかしたい」と言う人たちが来ている中でたまたまそういう要職にいたことや、被災地でたまたま建築とか街作りをする仕事に携わっていたのは運命だなと思っているんですね。

間もなく10年といっても、たかが10年です。これから何十年とかけて震災後復興させるのに、自分がこの仕事を現役でやるうちは、復興の仕事をやらねばならないと思っているんです。被災された方の中には、震災後すぐでなくても、気持ちが落ち着いたころに「やり始めようかな」という人もまだまだ沢山いらっしゃいます。津波で全員家族を失って、自分には仕事しかないということで、気持ちが整理できて、前に歩き始めた方々に対して、とことん寄り添っていきたいです。商業施設をやるとか、津波で家族を失ったオーナーさんの仕事をやるとか。それはぜひとも自分の使命としてやり続けたいと考えているんです。

「残すことができる」ことが喜びだと最初に言ったのは、震災にまつわるところで何か形として残す、「大事な記憶を残せる」ということにも携われるからなんです。そういうところは有形無形に関わっていきたいです。まだまだやるべきことはいっぱいあると思うので。

そこに来てまたコロナ。今はコロナに立ち向かえる、コロナと共生できる装置を作ることが課題です。建物を通して。「絶対乗り越えられる」「乗り越えられないものは無い」。そういう精神で挑んでいくつもりです。

コロナはもちろん、これからの時代にマッチした、持続可能なものをぜひ残していただきたいですね。

それが今、たまたま見えてきた時期ですね。

お客さんの気持ちに寄り添う仕事をするというのは、絶対に変えたくない

さて菊地社長が仲間との間で大事にしていることはなんですか? 1人ではできない仕事で、現場にもたくさんの人が携わるわけですよね。

2つあります。
1つは全てに対して誠実であること。ごまかさないこと。
もう1つはどんなに難しくても常に道を探し続けること。なかなかいい方法が浮かばない場合もあるんですけど、諦めずに道を探し続ければ何とか見つかる、今までそうやって仕事をしてきたので。この業界に入って40年。諦めなければ何とか活路が見出せるんです。

「これしかできないから、これで割り切る…」みたいな話はよくあるんですけど、私はそういう場合でも「もう少し考えてみよう」と言います。予算がなくてもその条件下で最良のものを探す。そこをちゃんと突き詰めてやったほうがお客さんが最終的に喜んでくれるんですよ。

それが菊地社長のポリシー、ブレない価値観なんでしょうか。

そうですね。お客さんの気持ちに寄り添う仕事をするというのは、絶対に変えたくないです。特に震災後は特にその想いが強くなりました。
「そこで生活している人たちの振る舞いですとか、気持ちですとか、そういったものに寄り添える仕事をし続ける」というのはどんなことがあっても変えたくない。あとは対話です。お客さんや、周りの環境とか社会とか、工事が始まれば現場の人たちとか、そういう人たちとの対話を大切にすることです。時間をかけて。丁寧に。

この仕事を次の世代にどのように伝えていきたいですか?

今は膨大な情報が世の中に溢れている。「新しいものを建築で」とか、既存の建物のリノベーションとか、そういったものについては、前向きでいいなと思いますが、今は「美しいものを作ろう」という気持ちが我々の頃より少なくなっているように見えるんですよ。

美しいものに、人は集まります。仙台で言えばメディアテークであったり、ああいうものに人は集まるんです。そういう美しい「もの作り」に、ちょっと無関心になりつつあるかなって感じます。諦めているのかな。

諦めざるを得ない、ということはありませんか?予算などの問題で。

分かりますよ。「施主がこんな予算しかないから、こんなものしかできない」とかね。でも、時代がどんなふうに変わっても、その場所で新しい世代にあった美しい建物に挑み続けて欲しいと思います。みちのく仙台のこの土地で。

首都圏や関西圏の人達が、仙台でそういったもに携わっているというのは実は多いんですよ。よそ者の方々に負けずに、自分たちの仙台に、地元つ子が、美しいと思えるような建物を残そうと挑み続けて欲しいです。

なるほど。話はちょっと逸れますが、そういう意味でも少し前に話題になった宮城県美術館移転・取り壊し話はとんでもないですよね。

宮城県美術館はとんでもないです。あれは前川國男っていう人が設計してて、学生時代に私が憧れた青森出身の建築家の一人なんですが、彼の建築はすごく素敵なんですよ。

宮城県美術館のいいところは、建物だけではなくて、外構にも気を配っているデザインなんです。日本建築っていいじゃないですか。周りの庭があって、溶け込んでいるからいいんですよ。お城にしても寺社仏閣にしても。建物単体だけではなく、周りの環境と溶け込んでいる。そういうのが一番心を打つと思うんですよ。

これって日本人だけでなく、世界に誇れる景観だと思います。私はイタリア人と交流を持っているんですが、イタリア人は日本人以上に、日本建築のこういう姿が好きなんですよ。イタリアみたいにデザイン志向の国の人たちからも、日本のデザインは認められているんです。

幸せになるために生まれてきたので、残りは楽しみたい

菊地社長の子供時代についてうかがいます。どんな子供でしたか?

友達に迷惑をかけないように振舞う、というのはやっていましたかね。付き合いはよかったかもしれないです。小さい時から空気を読んで生きていたかも。
でも今は「空気を読んで、周りのみんなから好かれて」みたいなキャラはダメだと思い始めているんですよ。「万人にいい人だと言われるような人間になってはいけないな」と。敵を作ってでも、自分を出してわがままに生きて、それでいてそんな自分のことをいいなって思ってくれる人がいれば最高ですよね。

菊地社長はどんなことに怒りを感じますか?「こういうのは許せない」、「こんな人は嫌い」というのはありますか?

基本的には人の好き嫌いは意外とないほうではあるのですが、あえて言うなら「人を否定するような人」「考え方が丁寧じゃない方」、そういう人には腹が立ちます。

今後の展望を教えてください

あと現役を何年できるかはわかりませんけど、やっぱり楽しみたいですよね。幸せになるために生まれてきたので。残りは楽しみたいです。

今まで、断る勇気もなかったから、来る仕事は大概はやってきたんです。得手不得手関係なく。不得手であることも、「少し勉強すれば、気合いを入れれば、やれるかな」ということで、いろんなことをやってきました。でも、これからはどれか一つ、好きで得意なことに特化していきたい、それで十分だなと。

「集合住宅を頼むんだったら、仙台では菊地さんがいるよ」って言われるように、そろそろ一点集中でやってもいいかなって思っています。

菊地社長にお仕事を依頼したお客さんはどのようになっていますか?

事業用と居住用の2パターンありますが、事業用であれば事業を失敗したお客さんは一人もいません。それは自慢できるかな。あと居住用では、お客さんの希望が叶うようなものを形にして仕上げているので、満足していただいています。
今までのお客さんは、ほとんど「頼んでよかった」と喜んでくれてますよ。

住宅の設計って面白いんです。ご夫婦だとか、これからの家族で「うちを建てたいんだ」というところは、場所の選定や土地探しからやってやったりしますしね。住宅は面白いんですけど、大きい建物に比べるとけっして割のいい仕事ではないんですが(笑)。

金額の割には手間がかかる感じがします…

そう。施主さんと意気投合すると自分も熱くなって、とことんやっちゃうわけですよ。でもやればやるほど経費が掛かるという(笑)。ビジネスとしては良くはないんですが、最初に言ったように何が楽しいかと言えば、引き渡して喜んでもらって、その後も、個人的に毎年年賀状をもらったりとか、お礼のハガキをもらったりだとかというのが嬉しい。「家族でこうやって使っています」というようなお便りがあったりすると本当に嬉しいです。

菊地社長にお仕事をお願いすると、みんな自分の人生というか生活に満足して、幸せになるということですね。

そう、ハッピーになっちゃいますね(笑)。

これを断言できるのは素敵です。菊地社長は最初の段階で、あまりお客さまを選ばないとおっしゃっていましたが、とは言いつつもその中でも理想のお客様像ってあるんですか?

言ったことに関してちゃんと理解してくれて、多少お金がかかっても提案を受け入れてくれたり。「菊地さんの言う通りだな」と思ってくれる人がやはり、神様のようないいお客様ですかね。

新しいスタイルの構築・提案に挑戦していきたい

会社として、中長期的な視点でやりたいことを教えてください。

温暖化が進んで昨年はあれだけの大雨が降ったりしています。なので集合住宅について環境的なものだとか、あとはコロナだとか、震災でもともと疲弊しているこの街で、それでも心豊かにやっていけるような新しいスタイルの、居住施設の提案ができたらいいなと思っています。

もともと、そういう変化の流れだったのが、コロナでより加速したわけです。学校も、対面での授業とウェブ授業が選べるようになるとか。あとは通勤しないで働くとか。今すでに毎日出勤しなくてもできるようなライフワークになりつつあるじゃないですか。

来年は空前の事務所の空室率になるはずです。東京を中心に、月に家賃を何百万も払っていた企業もあるでしょ。それが半分以下になると言われています。

生活と仕事のスタイルが変わる。それを建築は形にせざるを得ない。あとは空いたオフィスをどう使うか。リノベーションとかコンバージョン。それに関してはやりようがありそうなので、その新しいスタイルの構築・提案に挑戦していきたいですね。 それがちょっと今から楽しみでもあります。

個人的には日本建築に戻ったらいいんじゃないかなと思っているんです。オープンエアがすぐにできる和風建築。ふすまだとか障子だとかを取れば、庭と一体になって、それこそ密にならない。換気としてばっちりなわけですから。壁で囲ったコンクリートじゃなくて。

中と外の間に廊下があり、さらにあいまいな縁側があって、その先に外構みたいな。そういうのを取り入れて集合住宅をやったら面白いじゃないですか。あいまいな空間。中でもない、外でもない。

それとか、みんなでシェアして使えるような中庭のような空間を作ったり…。

私は震災以降、特に、他人とシェアしながら住むというスタイルがこれからの流れのひとつかもしれないと思っているんです。個性のある一人者たちが一緒に住んだら楽しそうですし、そういう人たちが集まるだけでも何か面白いことがやれそうですし。

菊地社長が育てて巣立っていった社員たちのことを聞かせてください。

大手に移ってあらためてチャレンジする人は、一人ぐらいで、それ以外は震災の時に2人独立させましたね。入る時から「菊地さんのところで学んで、いずれ自分は独立したい」と言っていて、それで震災が来て、「独立するんだったら今しかない」って私の方から促して2人を独立させたんです。私は困るんですけどね。震災後はやることがいっぱいあって本当に大変でしたから。

でも、震災の時は建築に携わっている人間が全国から「とにかく助けるために東北に行かねばならない」と言っていっぱ来ている中で「仙台で仕事をしている人間が動かないでどうするんだ」という感じだったのでね。

何のために今まで自分の下で学んできたんだ?!いつそれを生かすんだ?!今でしょ!って感じですね。育ててきた実力のある社員、つまり人財を外に出す、しかも大変な時に。なかなかできる事ではないです。今日は本当にいいお話ありがとうございました。

プロフィール

株式会社ASKA総合計画
代表取締役

菊地 慎一SHINICHI KIKUCHI

一級建築士
認定不動産コンサルティングマスター

略歴
1996年 株式会社ASKA総合計画設立
1984年 株式会社西洋環境開発勤務
1981年 日栄開発株式会社勤務
1981年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
1957年 宮城県仙台市に生まれる